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軌跡

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荒井屋のおこり

荒井屋初代・荒井庄兵衛は、東京・板橋周辺の農家の生まれ。兄弟が多く末の方で分けてもらえる田畑もありませんでした。そこで、一念発起して一旗あげようと横浜へ。
回船問屋での丁稚奉公から身を起こし、奉公先で出会った妻とともに明治二八年、牛鍋店「荒井屋」を興しました。
横浜港開港時にはまだ食牛の習慣が一般的でなかったものの、明治五年に明治天皇が自ら牛肉を食されたことで一気にブームになりました。まずは高級料理店で扱われるように。
続いて牛肉のなかでも扱いにくい部位や不揃いな形の部位(いわゆる落とし肉)を使った廉価な牛肉料理を提供する庶民的な牛鍋屋が流行。荒井屋もそのような大衆店のひとつでした。

〈昭和初期〉 本店を写した最も古い写真。2代目・荒井登良吉(中央)が電気コンロを導入した頃。

〈昭和初期〉 本店を写した最も古い写真。
2代目・荒井登良吉(中央)が電気コンロを導入した頃。

開化のお味

牛肉をより多くの人に手軽に食べて
もらおうと、開業後も庄兵衛は知恵を絞りました。
そこで考案したキャッチフレーズが
「開化のお味は路面電車のお値段で」。
落とし肉を使った牛めし・牛そばを、
路面電車の初乗り運賃と同額の四銭で。
それは庶民の心を掴み、お手頃なメニューとして評判になったのです。
横浜に路面電車が開通したのが明治三七年。開業より約九年後のことでした。

二代目・登良吉

荒井屋の二代目を継いだのは長女・花の婿である登良吉(とらきち)。戸塚の農家の出で実直且つ、人一倍の商売熱心。
毎朝一番に市場に出かけたため、安くて良い品には片っ端から「荒井屋」の印が押され、他の客を口惜しがらせたといいます。
大正十二年(一九二三年)に関東大震災にみまわれ、荒井屋も店を倒壊・焼失という被害を受けたものの、登良吉はただちに復旧させ、さらに昭和初期には本店を大増築させたのです。

〈大正7年〉 初代・荒井庄兵衛(中央)は2代目・登良吉(右)を迎え、荒井屋の発展を願った。

〈大正7年〉 初代・荒井庄兵衛(中央)は2代目・登良吉(右)を迎え、荒井屋の発展を願った。

〈大正14年〉 料理を通して人を喜ばせたいという想いが強かった登良吉。あえて職人の格好で撮ったもの。

〈大正14年〉 料理を通して人を喜ばせたいという想いが強かった登良吉。あえて職人の格好で撮ったもの。

商売繁盛の秘訣

荒井屋では大正から昭和初期にかけてこれまでの炭火コンロを廃し、当時はまだ珍しかった電気コンロをいち早く導入。
大正十四年にラジオ放送が開始されるなど、家庭用電化製品が徐々に広まりつつありましたが、まだまだ電気製品は贅沢品。
そういった時代での新しい試みは、新聞記事にもなるほどの注目ぶりでした。他にも、登良吉はお客様を喜ばせるアイデアを次々に考案。
ある時には店の庭にモーターを使って滝を出現させ、来店客を驚かせたこともあったとか。それは暑い時期の滋養強壮にと牛肉を食べにきた人々に少しでも涼んでもらおうという、登良吉の粋な計らいであったといいます。
荒井屋持ち前のサービス精神と工夫、さらには伊勢佐木町の隆盛もあり、大衆牛鍋店として盛業を続けていきました。

〈昭和14年〉 3代目・精一が高校を卒業したときに2代目・登良吉と写したもの。

〈昭和14年〉 3代目・精一が高校を卒業したときに2代目・登良吉と写したもの。

激動の昭和時代

昭和二十年(一九四五年)五月二九日。朝からよく晴れた日でした。空に大量の焼夷弾が舞うと、横浜の街は一面火の海に。荒井屋の運命を狂わせたのは横浜大空襲でした。
二代目女将・花は子を背負い命からがら大岡川に飛び込み、伊勢佐木町が燃えるのを川の中から見ていたといいます。店は塵灰と化し、町内会長として人々の避難誘導にあたっていた登良吉は行方不明のまま帰らぬ人となりました。

再建への道のり

横浜大空襲後、花は次男や三男、従業員とともにのれんを守り抜こうと、荒井屋の再建に尽力しました。焼け野原の中、すいとん屋として出直し、昭和二四年には長男の精一がシベリアから復員して三代目を継ぎ、荒井屋の牛鍋は復活を遂げたのです。昭和二五年に店を建て替え、その後、三代目女将・愛子とともに現在の本店を完成させました。
昭和三十年代からは横浜市新庁舎や横浜駅地下街への出店など、高度成長とともに隆盛を極めたのでした。

〈昭和20年代〉 シベリアから復員した精一を中心に、横浜大空襲で焼失した店を再興。

〈昭和20年代〉 シベリアから復員した精一を中心に、横浜大空襲で焼失した店を再興。

〈昭和31年〉 3代目女将・愛子(中央)が4代目・一雄を出産。2代目女将・花(左)、一雄の姉・良子(右)とともに。

〈昭和31年〉 3代目女将・愛子(中央)が4代目・一雄を出産。2代目女将・花(左)、一雄の姉・良子(右)とともに。

〈昭和60年代〉 3代目・精一の晩年の頃。
柔和な人柄がうかがえる。 激動の時代を乗り越え、荒井屋を守り抜いた。

〈昭和60年代〉 3代目・精一の晩年の頃。
柔和な人柄がうかがえる。 激動の時代を乗り越え、荒井屋を守り抜いた。

〝外の目〟経営

一雄は四代目女将・順子や従業員の助けを受けながら多角的経営で手腕を発揮しました。横浜駅のダイヤモンド地下街のカウンター式の丼ぶり屋を改装。十分以内に料理を提供するという斬新なスタイルで当時の人々を驚かせました。
その他、商業施設やデパートへの出店と事業を拡げ、本店についても積極的に改革を行っていきました。ところが、平成三年以降、景気が後退。
それによって事業縮小を余儀なくされたものの、一雄は本店だけはと守り続けたのでした。

老舗の決断

一雄は四代目女将・順子や従業員の助けを受けながら多角的経営で手腕を発揮しました。
横浜駅のダイヤモンド地下街のカウンター式の丼ぶり屋を改装。十分以内に料理を提供するという斬新なスタイルで当時の人々を驚かせました。
その他、商業施設やデパートへの出店と事業を拡げ、本店についても積極的に改革を行っていきました。ところが、平成三年以降、景気が後退。それによって事業縮小を余儀なくされたものの、一雄は本店だけはと守り続けたのでした。

のれんを受け継ぐ心

一雄は四代目女将・順子とともに苦難を乗り越えるも、平成十九年に病のため永眠。闘病生活のさなか心血を注いで作りあげた「荒井屋 万國橋店」のオープンから二か月のことでした。
その後は順子が社長業を引き継ぎ、四人の子を抱えながら店を切り盛り。三代目以降、BSE(狂牛病)問題や生食肉問題、東日本大震災、さらには牛のセシウム汚染など次々に襲う荒波を乗り越えながらのれんを守り続けました。
一代一代時代とともに工夫を凝らし知恵を働かせながら、荒井屋は二〇一五年で百二十周年。
お客様のために、家族のためにのれんを守り、伝統を引き継いできました。これからもその心は受け継がれ、次の歴史を紡いでいくことでしょう。

〈平成19年〉 万國橋店をオープンした4代目・一雄と女将・順子。一雄が亡くなった5月に撮ったもの。

〈平成19年〉 万國橋店をオープンした4代目・一雄と女将・順子。一雄が亡くなった5月に撮ったもの。